第5章 『それぞれの想いと傷痕』

 後藤が記憶を失ってから、達海はそのことをあまり意識しないように、考えないように、と
部屋にこもって戦術をひたすら考える事にしていた。
 だが、そうすればするほど、後藤の存在が自分の中でどれ程のものだったかを思い知る事になってしまった。
 例えばこうして連続で頭をフル回転させて疲れてくる時。
 
『達海、広報や経理の人達にお菓子でも買ってこようと思うんだけど、お前も気分転換しないか?』
 
 嫌味なく、外の世界に連れ出してくれる優しいお前。
 例えば寝るのも食べるのも忘れ、没頭してどうしようもない時。

『邪魔する気はないけど・・・そろそろ栄養も摂取してくれ』
 
 そう言って、押し付けることなく軽食を置いていく気配りなお前。
 記憶を失う前の後藤は、こんな風にいつもさりげなく達海を気遣ってくれていた。
 それは、後藤が達海のことを普段よく見ていて、常に心に留めてくれているという証拠でもあったのだ。
 だが、退院してから、後藤は達海の部屋に一度も訪れていない。
 同じクラブハウス内に居るのに、こんなに遠く感じたのは初めてだ。
 勿論、仕事が溜まっているだろうし、記憶を戻す為に他の者達と沢山接触する必要もあるだろう。
 来客だってあるし、会議だってあった。
 本来ならGMという仕事はとても多忙だ。
 だから達海のことを気に掛けなくたって、そんなの普通なのだ。
 そう分かってるのに、達海はふと後ろを振り向いて扉を見てしまう。

『オレは・・・待ってる、のか・・?』

 いつも律儀にノックしてから開かれる扉と、そこから聞こえる自分を呼ぶ声を。
『あ〜〜〜!集中できねえ!』
 頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜるとえいっと伸びをし、溜息を吐く。
『気分転換でもすっか』
 別に後藤が来なくても自分で気分転換くらいするさ、と変な言い訳を自分にしながら部屋を出る。


 外に出るとすっかり夜も更けて、辺りは真っ暗だった。
 集中してたわけじゃないのに時間の感覚が狂ってるらしい。
『ああ、また夕飯食うの忘れてたな・・・今、何時だ?』
 グラウンドの傍にある時計を見たら、十時半を回っていた。
 あー・・どうすっかなーとぼんやり立ち尽くしていたら、道路の方から人影が見えた。
 クラブハウスの前を通って、奥にある寮に帰る誰かだろう。
 するとその人影は、突っ立ってるのが達海だと分かったのか、こちらに向かってきた。
 
「監督・・・?」
 その人影はETUのキャプテン、村越だった。
「村越か・・・こんな時間に買い物?」
 よく見ると左手にコンビニの袋が下がっている。
 聞くと村越は曖昧に頷きながら、達海の背後をざっと見回している。
「?」
「アンタ一人ですか?」
「そーだけど」
 そう答えると、尚更理解できないという風な顔をして問うてきた。
「・・・・こんな時間に、ここで何を?」
「別に、何も」
「は?」
「だから、別に何もしてない」

 達海猛という人間は、常人にはない才能を持っているが、人間的にも他にはないような不思議だらけで構成されている、と村越は思っている。
 昔からだったが、十年経ってもそれは変わらないらしい。
 そもそも凡人の自分が理解しきれるような器じゃなかったなと村越は思い、
話を切り上げて寮に帰ろうかと思った時。

「なーんでこねーんだよ、って思ってさ」

 突然上を向いたかと思うと、達海がぽつりと呟いたのが聞こえた。
「え?」
 咄嗟に村越は達海を見やったが、空を見上げたまま動かない。
『“来ねぇ”・・・?何が?』
 軽く驚いて達海を見てると、「悪ぃ、何でもねぇ」と言って俯いた。
 何だか達海らしくない行動だ。
「・・・明日もあるし、早く帰って休めよ?」
 だが、次の瞬間にはもういつもの彼に戻っており、一言そう言うと返事も聞かずに
踵を返してグラウンドに向かって歩いていった。
 村越はその背中を追いかけてさっきの真意を問い質したい気もしたが、達海の背中が今は何者をも拒絶してるのが分かり、そのままクラブハウスの敷地を出る。


          ◆◆◆

          
『なーんでこねーんだよ・・か』

 歩きながら先程聞こえた達海の呟きを思い返して、村越はあることに思い当たった。
『ひょっとして、“何が”じゃなくて“誰が”ってことか・・・?』
 “来ねぇ”対象が人だとすると、それに当てはまりそうな人物はおそらく後藤GMだろう。
『やはり、先程GMと待ち合わせでもしてたのか?』
 だが、あんな時間に・・・という以前に、あの後藤が達海を待たせたり、まして約束をすっぽかすなどあるわけがない。
『だとしたら、今の話じゃないってことか・・・・』

 村越自身自覚しているが、達海に関しては十年前から色々と複雑な感情を抱いている。
“憧憬”“敬愛”“憎悪”“憤怒”・・・何というか色々ありすぎて一言で言い表せない。
 だから分かるのかもしれないが、後藤が達海のことを今も監督として以上に個人的に大事にしている、
というのは分かっていた。
 後藤GMという人は以前に自身がETUに所属していたこともあって、
選手の事をよく考えて行動してくれる珍しいタイプのGMだ。
 普段の練習も、選手がストレスにならない程度にそっと見に来てくれているのを選手達も知っている。
 正直、達海を監督にすると連れ戻したときには「なぜあの裏切り者を」と
恨みそうになったこともあったが、今はこれで良かったんじゃないかと思えるまでになっていた。
 そんな後藤が居るからこそ、あの突拍子もない言動や不可思議な思考を持つ達海を監督としてここに留めているのではないかと思う。
 何を考えてるのか本当に分かりにくい達海だが、後藤のことは心から認めているらしく、よく共に居るのを見掛ける。
 ・・・だが、ここ最近は二人でいる姿をあまり見掛けていない。

 『GMの記憶が戻ってないから・・・だろうな』
 週初めに後藤が階段から落ちて、怪我の為入院したと聞いた時
「早く快癒するよう、ゆっくり休んで欲しい」という位にしか思わなかった。
だが、翌日に「その時頭を打って記憶喪失になってる」と聞いた時には流石に一瞬言葉を失うほど衝撃を受けた。
 幸いなことに、彼が記憶を失っても選手達に直接大きな影響があるわけではなく、更に彼は選手達の記憶に関しては失っていないとのことだったので、自分を含め選手達は皆一様に安堵していたのだ。
「そんな訳だから、皆は安心して練習に励むよーに!」
 いつもと変わらない調子でそう言った達海だったから。
「んじゃ、GMってどの辺の記憶が無くなっちゃったンすかね?」
 そう無邪気に聞いてきた世良の言葉に一瞬場が静まる。


「・・・・・・・・オレ。オレの存在、あいつからなくなってた」

 
 あっさりと変わらない様子で答える達海に、却って選手達は皆口を閉ざしてしまった。
 しかし「そんなことはいいから、練習練習!」といつも通りにメニューを指示して普段と変わらない態度でいたから、後藤の記憶喪失も軽度のもので、達海も大して気にしていないのだろうと皆思っていたのだ。

 実際、退院してから後藤の記憶は徐々に戻っているらしく、コーチ陣の記憶も完全に回復したと聞いている。
 それなのに、達海に関しての記憶はまだ失われたままだという。
『なんでよりによってあの人の記憶が戻らないのか・・・』
 今日の練習でも達海は今までと変わらない態度でこなしていたように見えた。
 だが、そういえば・・・
『ここ何日か、ふと気がつくとクラブハウスの方を見ていたな・・・』
 村越が達海の方を見た時に何度かベンチで胡坐をかいたまま首だけ横を向いていたのだ。
 あまり気にしていなかったが、あれは後藤のことを気にしているという表れだったんじゃなかろうか。
 さっき、態度が彼らしくなかったのも、きっとその影響だろう。
 基本的に後藤だろうが、村越だろうが、誰の影響も受けなさそうな達海の精神だが、
そういうわけでもないらしい。

『試合に・・・・影響しなきゃいいが・・』



 村越の懸念は現実のものとなった。
 その日、ETUは久しぶりにホームで完全なる敗北を喫した。
 相手のレベルは格下で、今のETUなら正直勝てない試合じゃない。
 原因は選手の技術よりも戦術だった。
 赤碕と王子と杉江が抜けていたとはいえ、相手の監督の采配に中盤の支配を奪われてしまい、修正もきかず3点も献上してしまった。
 痛いことに、開幕戦以来の大量失点だ。
 中でも椿は好調だった為か、マークが厳しくつき、何度もパスコースを限定され奪われた挙句に得点された。
 達海は何度か指示を変えたが、相手の監督には読まれていて、達海には珍しく采配負けしたのだった。
 この日、達海は最初から既に集中力を欠いてることを自覚していた。
 今までにないことだが、赤碕と王子の欠場はともかく、杉江が累積での出場停止になっていたことを失念してその日の戦術を練っていたという始末だ。 急遽作戦を変えたが、上手く機能しなかった。

 試合終了後、誰もが口を閉ざしていた。
 今までも敗北なんて何度もあったし、開幕で5連敗した時だって相当ピリピリした空気だったが、今回は明らかに違っていた。
 リーグで大阪に勝利して以来、ETUはかなり良い方向へと変化していた。選手達の調子もメンタル部分も少しずつだが、達海というカンフル剤を受けて新しいETUになりつつあった。
 皆も達海という存在を受け入れて団結しつつあったのだ。
 だからこそ、今日のピッチでの達海の異変に誰もが気付いてしまった。
 『いつもの監督じゃない』
 そう思ったが、誰も口には出せなかった。
 何となく原因が分かってしまったからだ。
 仕事に影響出されても困るが、あの達海でさえこうなのだ。
 その心の衝撃は計り知れない。
 試合だって、自分達が動揺せずに冷静に対処してたなら、勝てたはずだ。
 そう感じたからこそ、達海を責める気にもならなかった。
 

 それは、関係者出口からバスへと乗り込むまでの短い距離で起こった。
 スタジアムには試合が終わり、着替え終わった選手達がクラブハウスへと帰るために専用のバスに乗る場所がある。
 一部の熱狂的なサポーターはそこで入り待ちや出待ちをすることがあるので、小さいが柵や警備員が配置されている。
 その日もサポーターが何十人か待ち構えていたが、選手達はその中を無言で足早にバスへと向かっていた。
 「次は負けんなよ!」
 「気持ち切り替えて頑張れ!」などという前向きでありがたい声援から
 「次ホームで負けたら許さねーぞ!」という怒号まで様々な声が飛び交っている。
 最後の方で今日の結果にすっかり落ち込んでいる椿がトボトボと歩いていると、人ごみの中で何かが動いた。
 そのすぐ後ろで歩いていた達海は「それ」に気がつくと、歩調を早めてサポーター達を隔てる柵と椿の間に割り込むようにする。
『え?かんと・・・』
 急に自分の横に来た監督を、椿が不思議に思ったその瞬間。

「 !! 」

 達海の左胸辺りに何かが直撃して落ちた。
 足を止めて咄嗟に下を見やると、そこには市販されてるリストバンドが一つ落ちていた。
「監督!」
 後ろにいたはずの村越が達海の腕を掴んだかと思うと、自分の背後に庇うようにして立ち、厳しい目をしてサポーターを見回す。
 リストバンドを投げつけた青年はすぐに逃げたが、警備員に追いかけられ、奥で捉まっていた。
『危ないものじゃなくてよかった・・・』
 達海は安堵して軽く溜息を吐くと、村越や警備員から「早く!バスへ!」と急かされ、最後にバスへと乗り込んだ。


 バスへ乗り込むと、皆が心配そうに達海を見ていた。緑川が代表して声を掛けてくる。
「監督、今の・・」
「大丈夫だ、大したことない」
 達海がきっぱりと皆に聞こえるようにそう言うと、とりあえずほっとした空気になったが、
一番前にいる椿が立ち上がってよろよろと近づいてきた。
「か、監督・・・」
 既に顔が真っ青で今にも泣きそうだ。
『あ〜やっぱ気付かれたか・・・・』
 コイツは神経が繊細だし、知ったら傷つくだろうと思ったから、気付かれない様に庇ったつもりだったが・・・
「椿、とりあえずココ座れ。立ってると出発できない」
「あっ、は・ハイ・・!」
 椿を目の前の座席に座らせ、その隣に自分も座る。
 いつもの席とは違うが、しょうがない。
 
 バスが走り出すと、椿が遠慮がちに小さな声で話しかけてくる。
「監督・・さっきの・・おれ・・すみませ」
「なんで、謝る?」
「え?だ、だって、さっきのって、俺を狙ってましたよ・・・ね?」
「なんで?」
「だって・・・今日、俺・・すごい失態で・・だからそれでサポーターも怒って・・・」
「・・・・・・」
「それなのに、か、監督に当たって・・・・」
 もう椿は半分泣いてるような状態だ。か細い声で謝罪を繰り返す。
「す、すみませ・・」
「違う」
「え?」
「確かに今日の試合、お前も反省するべきトコがあると思う」
「はい・・」
「でも、謝らなくていい」
「・・・・・え?」
 ようやく椿は顔を上げてこちらを見返してきた。
「今日の敗因の根本的なものはオレにあるからだ。だからアレを当てられたのも間違ってないし、お前はとばっちり喰らっただけ」
「そ、そんな・・違います!」
 達海がそう言うと、椿は必死になって否定してきたが間違ってない。
「違わない。・・・・・悪かったな」
 組んでいた腕を解いて椿の頭をくしゃくしゃと撫でてやる。
「監督・・・」
「もう、こんなことにはならない。次はコテンパにすんぞ」
「! ・・・・ッス!」
 そう言っていつものように笑うと、椿はその言葉の真意を読み取ってくれたのか、小さく目を瞠ったがすぐに力強く頷いてくれた。
「うし。んじゃ、ちょっと肩かして」
「へ?」
「着くまで寝るから」
「えっ、で、でもすぐ着いちゃいますよ??」
「いいから、いいから」
そう言って強引に頭を凭せ掛ける。
「は、はあ・・。じゃ、どうぞ・・」
「ん」
 椿はきっと意味が分からないという顔で見てるだろうが、それでいい。
 それでも気になるのか遠慮がちに伺ってくる。
「あの・・痛く・・ないですか・・?」
「へーき」
「・・・そうですか」
 目を瞑ったまま頷いてより凭せ掛けると、ほっとしたかのような椿の声が頭上から聞こえた。
 多分、これで伝わっただろう。
 椿は重度のチキンという欠点があるが、今日みたいな日は特に全てを自分のせいにしてしまいがちだ。
 そして、達海や周りの人間の評価を自分で想像してびくびくとしている。
 だが、今、自分の評価は伝えた。感情的にも浮上して欲しいと。
『これで、次に引きずらなきゃいいんだけど・・』
 そう考えながら、人の事よりもまずは自分だなと思い直す。



          ◆◆◆



 先程、サポーターから投げつけられたのはリストバンドだったが、達海は過去にも物を投げつけられたことがあった。

『あん時は、生卵だったんだよな〜・・・』

 達海がまだ現役だった頃に、海外のチームとやった時のことだ。
 今日とは逆で、達海がハットトリック決めるなど大量5得点を決めてETUが勝利したのだが、負けた事で苛立っていた相手の熱狂的サポーターの一人が「悪魔の手先め!」と叫んで生卵を投げてきたのだ。
 
『あの時は・・確か、後藤がオレを庇ってくれたんだっけな』
 
 達海のすぐ傍を歩いていた後藤は、叫んでる人間が達海を狙って何かを投げたと思ったら、すごい勢いで達海の腕を掴み自分の背後に隠すようにして庇ってくれた。
 おかげで「何か」は後藤の左胸に命中してしまった。
 「何か」の正体は生卵だったわけだが、それが爆弾や他の危険なものだったら、直撃した後藤の命の保障はなかったわけだ。
 それを知った時、達海は言い知れない不安と喪失感に襲われ、カッとなって後藤に詰め寄ったのを覚えている。
 その当時は良く分かってなかったが、達海は後藤を失うことを心の奥底ではもう既に恐れていた。
 それなのに、自分からはそれを見せず、後藤の困った笑顔を一方的に享受し続けていた。


 神なんか信じちゃいないが、これは「罰」なのかもしれない、と思う。
 平気な振りして表面上取り繕ってたのに、あっさり化けの皮は剥がれて、自分の本心が露呈した。

 もういい加減、達海は自分がいかに後藤という存在を必要としていたかを自覚してしまった。