第3.5章 『忘却の彼方に置かれし者』

 病室を出て扉を閉めると、壁に貼ってある入室者名が目に入る。
 「後藤恒生」と書いてある真新しいその札を見つめると、えもいわれぬ感情が再び達海の胸で吹き荒れた。
 無理矢理目線を外して静かにその場を立ち去ると病院を出る。
 乗り物に乗る気分じゃない。
 達海は歩きながら先程までのやり取りを思い返していた。
 一体なんだと言うのだろう・・・。
 階段で落ちる時の、自分を呼ぶ後藤の必死な声と目を覚えている。
『何で・・何であんなふうに庇ったりしたんだ・・・!』
 手を掴んでくれただけでもよかった。
 なのに。
 その後強く引っ張られたと思ったら、頭を抱きこむようにすると自分が下になるようにして、後藤は落ちた。
 おかげで自分はひじを打っただけで、ほぼ無傷だ。
 
『これの代償がアレかよ・・・』
 
 笑えないにも程がある。感謝することすら出来なかった。
 本人が覚えてないのだから。
 覚えていない。
 そう、後藤の中から達海の存在は消えていた。
 それが分かった時、何の冗談かと思った。
 今日は4月1日か?
 思わずカレンダーを見やったくらいだ。
 あの後藤が。
 この自分を。
 まるで知らない人間を前にした態度だった。
 話していて達海は初めて痛感した。後藤の普段の優しさを。

『全くお前は・・・しょうがないな』

 そう言って少し困ったような顔をしつつも、穏やかに笑って傍に居る彼の優しさを。
 達海はなぜか当たり前のように思っていたのだ。
 この存在が失われる事はないと。
 この笑顔は自分にずっと向けられているものだと。
 いつもいつでもべったりと傍に居るわけじゃない。
 普段はそれぞれのやるべきことをしてるからだ。
 それでも、達海が疲れたなと思ったときに部屋に誘ってくれたことが気分転換になったり、
達海が集中して食べなかったり寝てなかったりすると、さりげなく気を使って人間の生活に戻してくれたり、
公私に渡って気がつくといつも丁度いい距離感で傍に居てくれるのが後藤だ。
 あまりにも毎日当たり前に享受していたので、意識すらしていなかったと思う。
 それが、こんなにもあっさりと失われたのだ。
 流石の達海も動揺する心を制御するのに苦労した。

『これは・・・罰、なのか・・・・・?』

 ・・・実を言うと達海は、後藤の優しい気遣いの根源にある想いというものに、薄々感づいていたりする。
 いつからだったかはもう分からないが、英国で再会する前から既にあの瞳で見られていたことは覚えている。



           ◆◆◆



 十年前、共にETUで戦っていた時。
 達海がファウルを受けると試合後すぐに飛んできて誰よりも心配してくれたり、誤審でイエローをくらった時なんて我が事のように憤慨し、猛然と抗議してる姿に、自分の方が冷静になったこともあった。
 普段は比較的冷静で、穏やかで争いを好まず、派手なこともしない彼は達海のことになると人が変わるなとチーム内でも言われていた。
 そのことを指摘されると、後藤は少し赤くなりながらも憮然とした顔で
「そんなことは・・・ないと思うが・・」と言葉を濁していたのを思い出す。
 当時達海はETUの中心にいて、ゲームの勝敗に関わるほどのキーマンだったが、
その言動からヒーローであると同時に反発を覚える者も少なくなかった。
 達海は大して気にしていなかったが、この時の後藤を見て、彼が自分を他の人間と一線を画したところに置いてくれてる事を素直に嬉しく感じたと共に、
 『こいつが味方で居てくれるなら、いーや』 とまで思ったのだ。

 更に親しくなって、共に居る時間が増えると、達海は後藤の傍が思った以上に居心地がいいと気がついた。
 普通だったら上下関係に厳しかったりするこの世界だが、後藤はそういったことに煩くなく、
4つも年下の達海がタメ口をきいてても嫌な顔せずに普通に会話してくれている。
『なんか・・・変に気ぃ使わなくていいし・・・・・楽だ』
 そう思ったことを後藤に告げると、彼は一瞬複雑な顔をしたが
「それは光栄だ、ETUの英雄にそう言っていただけるとは」
と茶化してきた。
「んだよ、それー」
「いや、ホントのことだって。達海がそう思ってくれてるなら・・嬉しいよ」
 そういって微笑んだ後藤の顔を見て、達海は少なからず驚いた。
 嬉しいよと言って笑ってるはずなのに、その瞳に浮かんでいる感情は、多分「苦しい」とか「切ない」という部類のものだったからだ。
 その後は何事もなかったかのようないつもの表情に戻り、そのまま過ごしたが、今から思えば後藤の感情を意識したのはこの時からだったように思える。

 それからというもの、達海は気がつくと無意識に後藤を目で探すようになっていた。
 大抵、探さなくても気が付くと傍に居たりするのだが、ある日のこと。
 居なかったからと最初適当にプラプラ探してたのだが、見付からないことでヤケになり、探し回ってようやく見つけた時には後藤に随分驚かれた。

「達海、どうした?」
「〜〜〜っ、どうした?じゃねーよ!
いつも呼ばなくても近くにいんのに、全然見付かんないから、探し回っちまったじゃねーか」

 完全に言いがかりである。
 だが、こちらは必死に探したのに、なんでもないような顔をしているから一言くらい言ってやりたいではないか。
 息を切らせて一気に言い放つと、そんな自分を呆然と見て
「お前が・・・・・?探し回って・・・くれたのか?」などと言うので
「他にどー見えるんだよ」
と頷いてやると、後藤の表情が大きく変化した。

「・・・・・そうか。悪かったな」

『また、だ』
 言ってる言葉と、その表情に浮かぶ感情が全然違ってやがる。
 すまない、と言ってるのに笑顔だ。
 何でそんなに嬉しそうなんだ。
「お前・・・全然悪いと思ってないだろ・・・?」
 眉間に皴を寄せて抗議してやると、慌てたように訂正してきた。
「いや、そんなことないって。でもお前が他人を探し回るなんて見たことなかったから、ちょっと嬉しかったんだよ」
「・・・・・・はぁ?!」
 達海が後藤を探し回ったことを嬉しく思っての笑顔らしい。
 ワケが分からん。
「ああ、でもそこまで探してたってことは、何かあったのか?急ぎの用事だったか?」
 そう言って、後藤は途端に真面目な顔をして達海に問うてきた。
「あ・・・」
「ん?」
 問われてしばし言葉を失った。
 つい後藤の姿を求めて探し回ったが、探した理由など全く持って大したことなかったからだ。
 急ぎの用事があったわけでも、誰かが呼んでいる訳でもない。
「いや・・別に・・・・もういい」
「え?」
 大した用事もないのに、何を自分はこんなに探し回っていたというのか。
 何となく気まずい気分になり、後藤に背を向けて立ち去ろうとする。

「あっ・・・・ちょっと待った、達海!」
「なんだよ?」
 気まずさからつい不機嫌そうな声が出てしまったが、後藤は気にしてないようで、いつもの笑顔を浮かべながら話を続けてきた。
「急ぎの用がないならそれでいいんだが。お前、今日はもう上がりか?」
「うん、そーだけど」
「そうか。俺はこれから飯食う予定だけど、達海も一緒に行かないか?」
「・・・・・・メンツは?」
「今日は俺一人だよ」
「何処行くの?」
「お前の希望は?」
「んー・・・親子丼食べたい」
「わかった。俺はちょっと飲みたい気分だから・・・・『東東京』はどうだ?」
 成る程、あそこなら家庭料理も惣菜も酒もあって、寛げそうだ。
 ETUのサポーターが集う店だが、良識のある大人ばかりなのでゆっくりできる。
 達海のファンも多いので歓迎されるし気を遣って貰えるのだ。
 相変わらず達海のことを考えている後藤の選択に満足し、笑う。
「・・・・行ってやる」
 そう言うと、偉そうな言い方が可笑しいのか、後藤は喉奥で笑うと
「じゃ、行くか」
と達海を促して歩き出した。



          ◆◆◆



 こんな風にずっと、もう長いこと後藤は自分を甘やかしていた。
 
 あの瞳で見られる理由もちょっとは考えたが、「後藤は俺のこと結構好きなんだなー。俺もまあ後藤は好きだけど」という結論にしていた。
 その当時、達海にも後藤にも付き合ってる女性がいたし、それ以上の追求をすると、お互いの今のいい関係が脆く崩れてしまう気がしていたからだ。
 正直達海はサッカーの事で手一杯だったし、人間関係のゴタゴタなんて望んでいない。
 ましてやチームメイトの後藤とこじれたら、サッカーにまで影響しかねない。
 そんな事態は心底ゴメンだし、今の後藤との“居心地の良い関係”を壊したくないと望む心が、真実を見る目を無意識に閉ざしていたのかもしれない。



 だから、達海が後藤の“あの瞳”の本当の意味に気がついたのは、十年ぶりに英国で再会した時だったのだ。