第3章 『光の喪失』


 目が覚めたら、病院のベッドの上だった。
 39年間生きてきて、これは初めての経験だ。
 現役時代、怪我で病院の世話になったことは多々有れど、病気で倒れたことは無かったはずだ。

 強く呼ばれた気がして、声がした方へ顔を向けると茶色い髪の男が真剣な眼差しでこちらを凝視している。
 窓を背にしてるせいか、逆光で顔がよく見えない。

『・・・誰だ・・・?』

 なぜか相手は酷く安堵した様子でこちらに話しかけている。
 顔がはっきりと見えた瞬間、心臓が苦しくなって思わず息を呑む。
 それなのに見覚えのない人間だ。
 その顔を凝視しながら問わずにいられなかった。


「あの・・・貴方は・・・・?」


 その時の相手の表情は、なんと表現したらいいのだろう。




「オレを庇って・・・・階段から、落ちた」
 
 俺が?彼を庇って階段から落ちた??
 ・・・・いつの話だ・・・・?
 記憶にない。
 そう言った彼の顔を見て、また胸が痛くなった気がした。
 確かに庇われた挙句、相手が意識不明になったりしたら心配するし、罪悪感も感じるだろう。
 だが、何というか・・・・それだけだろうか・・・?
 罪悪感よりも重い・・・鉛でも飲み込んでいるかのような苦しげな目をしているのが気になった。
 
『そもそも、彼は誰だ?』

 そう思って聞こうとした時、医師がやってきて状況説明に入ってしまった。



「外傷性から来る”逆向性部分健忘”と思われます」
「逆向性部分健忘・・・?」
「ええ、一般的に言うと“記憶喪失”という状態になっています」
「記憶喪失・・・・」

 言葉は聴いたことがある。
 だが自分には全く関係ない言葉だと思っていた。今の今まで。
 しかしこの頭痛と共に思い出せない事があるのは事実。
「原因としては、階段から転落して脳震盪を起こしてますので心因性より外傷性を疑っています。状態としてこの事故が起きる前の事柄について記憶を失ってる様子ですし、生まれてからこっち全てではなく、一部分のみの喪失に留まってる事を考慮すると部分健忘でしょう」
 ひとつひとつ確認を入れながら医師は説明をしてくれる。
 おかげで自分が何故こうなっているかの疑問は解決した。
「部分健忘の場合、自分のことを忘れていても、社会的な事は覚えているというケースが多いです。後藤さんも同じようですし、この場合は時間が経つと徐々に思い出していく事が多いので、無理せずにいきましょうね」
 事実だけが淡々と述べられてるはずなのに、この医師は安心させるような微笑を持って後藤の心を安定させた。


 その時、病室の扉が勢いよく開いて人が入ってきた。
 今度はスーツを着た女性だ。やはり誰だか分からない。
「失礼します!・・・・あっ、後藤さん!」
「!」
 その女性が自分の名前を呼んだとき、何か心で動くものを感じた。
 自分はこの声を知っている。
 そう思うのに、誰なのか分からない。
「この声・・・・っ、・・・・・・くそっ」
 脳に霞が掛かっているかのようにもどかしい。
「え・・?後藤さん・・・??」
 女性は困惑した顔で自分と医師を交互に見ている。
「会社の方ですか?」
「あ、はい。同じクラブチームで広報担当の永田と申します」
「後藤さんですが・・・部分的な記憶喪失状態にあります。軽度とはいえ、脳震盪による意識喪失を起こしましたので精密検査等の為にも一週間程入院していただきたいと思います」
「はい。・・・・え・・・ええっ??き、記憶喪失??」
 驚きと共にこちらに視線を向けてくる。
 やはりこの声には聞き覚えがある気がする。
「ほ・・・ホントに・・・?私のこと、分かんない??」
 少し悲しげに聞かれて申し訳ない気持ちになる。
「すまない。ええと永田・・・さん?」
「!」

 永田有里は後藤が自分を「永田さん」と呼んだことで現実を受け入れざるを得なかった。
 いつもの後藤なら、有里の事は「有里ちゃん」と呼ぶからだ。
 そのことには酷くショックを受けたが、悲しんでる場合ではない。
 他にも確認しなければならないことがあるからだ。
「後藤さん、覚えてる事ってないですか?」
 有里に聞かれて、後藤は少し微笑んだあと、先程医師と話したことをもう一度話し始めた。
「うん、どうやら仕事の事は殆んど忘れてないみたいなんだ。俺がETUのGMだということや、ここに来る前までに打ってたメールのこととかは何故か覚えてるよ」
「え?そう・・なんですか・・・・?」
 そう言いながら、目線を移した有里に医師は説明する。
「先程確認したのですが、仕事に関することや、世の中で起きている現象、自分の取り巻く環境に関しての記憶の欠落はないようです。どうやら、自分に関しての個人的な部分と近しい人物について欠損してるようですね」

 そうなのだ。
 自分でも不思議だが、チームのこと、選手の事は覚えている。
 なのに、一部のスタッフに関して記憶が抜け落ちてるという。
 すっきりしなくて気持ちが悪い。

「逆向性の部分健忘の場合、散見される症状です。自分、若しくは自分に近い存在程欠落している事が多いとされています。この辺は外傷性であっても心因的なものが関係しているのでしょう」
 医師の説明によると、この症状はそれぼど奇怪なものでもなく、改善の余地があるということを知らせていた。
「そ、そっか。でもETUの事忘れてないってトコは後藤さんらしいね。
うん、これなら忘れた部分もそのうち戻ってくるよ!」
 女性は気を取り直すかのように明るい声で告げてくれる。
 忘れられてショックだろうに、自分を励ましてくれているのだろう。
 永田さん、か・・・。
 ・・・・・・・・ん?
「あれ・・・・永田さんって・・・・他にも居なかったか?」
 後藤が思わずそう呟くと、有里は驚いた顔をして
「う、うん!身近に二人居るよ!私のお父さんと叔父さん!」とまくし立てた。
 お父さんと叔父さん・・・・?
 疑問を顔に乗せてると、横から達海が口を挟んだ。
「会長と副会長だよ」
「え?そう・・・か」
 永田という苗字には引っかかったが、会長と副会長については肩書きと顔がまだ一致しない。
「ま、そのうち会えるし、会えば思い出すかもしんないし」
 表情から思い出せなかったことを読んだのか、達海はそう言って後藤から再び目線を外した。

         ◆◆◆
         
 とりあえず、精密検査等を受ける為に一週間程入院と決まった後、有里は後藤の仕事道具であるノートPCを持ち込むべく一度クラブハウスへ戻った。
 医者から絶対安静を命じられ、大人しくベッド上の住人になっているが、なんだか落ち着かない。
 起きた時に傍にいた男も今は飲み物を調達しに部屋を出ている。
『あれ?そういや、まだ名前も聞いてないな・・・』
 入院についてや症状の説明やらで目覚めて以来、彼と落ち着いて話をしていない。
 そもそも何故階段を彼と落ちる羽目になったのかも分からない。
 しかし・・・彼の瞳、表情、声・・凄く自分を揺さぶる何かを持っているのに、どうしても思い出せない。
『そういえば、さっき永田さんが部屋を出るときに呼んでたな・・』

『達海さん』

「!」
 達海・・・たつみ・・・
 まただ。分からないはずなのに胸がざわめく。
 俺はこの名前を、そして彼を知ってるハズだ。
 ひょっとして、結構親しい友人・・なのか?いや、同僚?だよな・・?
 混線する頭の中で情報を整理しようと自問自答していると、当の達海が戻ってきた。

「ここって自販機遠いのなー」
「あ、達海・・・」
「!」
 そう呼びかけたのは無意識だった。
 彼の顔を見た途端、自然に出てきたのだ。
 そうだ、俺はこうやって彼を呼んでいた気がする。
 呼ばれた達海は驚いた顔をして足早にこちらに向かってきた。
「ごと・・・お前、俺の名前・・・」
「あ・・いや、さっき永田さんがそう呼んでたのを思い出したんだ」
 そう言うと、どこか納得いったような顔に落胆を滲ませた表情で溜息を吐かれた。
「ああ・・・そっか」
「でも・・・やはり俺は貴方の事をそう呼んでいたんだな?」
「やはり?」
「貴方が誰なのかと記憶を辿ってみたんだが、思い出せないのに扉から入ってきた時に自然に口から出たんだ。・・・・“達海”って」
「・・・・・・・・」
「だから、今までもそうやって貴方の事を呼んでいたんだろうと思ったんだが・・・」
 そこで伺うように達海を見ると、読めない表情でジッとこちらを見ていたが、目を閉じると
「 ビンゴ 」 と言ってまた目を開いた。
「でも、“貴方”って言うな。“お前”でいいよ。なんか、調子狂う」
「え・・?ああ・・・・分かった」
「大体さぁ、オレに対して敬語使ってないのに、なんで“貴方”なんて言い方になんだよ?明らかにおかしいじゃん」
 そう言って口を尖らせて文句を言う達海を見て可笑しくなる。
 この男は真面目な顔をしていると目力も強い方だと感じるし、自分とそう変わらない年代だと思うのに、こうしてる姿は子供のようだ。
 つい笑いがこみ上げてきて喉奥で笑ってしまった。
「ん?」
 じろりと睨まれる。
「いや、悪い。そうだな、と思ってさ」
 笑いの残る顔のままそう言うと、達海は一瞬驚いたような顔になったが、すぐにぷいと首をそらして「分かればいい、分かれば」と嘯いた。
 言ったら絶対怒りそうだが、なんだか可愛い。
 ・・・・・・・いや、待て。
 大の大人に“可愛い”はないか。
 突然降って沸いた不可解な自分の思考を訂正する為、別の話題をふることにした。

「そういや起きた時も思ったんだが、目覚めたら病院のベッドでした、なんて39年生きてきて初めての経験だよ」
「そうだっけ?・・・・って・・・!」
「うん。現役時代には怪我で病院にお世話になった事くらいあるけど、病気でお世話になったことはないな」
「ごとー・・・お前・・・」
「ん?」
 達海が驚いた顔で絶句している。今日はこの表情よく見るな・・・なんて観察してたら、顔が近づいてきた。
「えっ・・・・?」
「後藤、お前今39年生きてきたって・・・・」
「あっ・・・・!」
 そう言われて初めて気がついた。
 そうだ、俺は今年で39歳のはずだ。それに・・・・・
「俺・・は、昔選手だった・・・・現役時代に怪我も、してる」
 怪我で病院に来たことはあるけど、病気で入院したことがないと“記憶”している!
 口に出した途端、色々な記憶が波のように押し寄せて自分の中で再構築されていくのが分かった。
「ああ・・そうだ・・・選手、サッカー選手だった。しかもETUに所属してたんだな・・・なんで忘れてたんだろう」
 呆然とした呟きだが、頭の中の霞が一部すっきりと晴れている。
『だが・・・・』
 自分に関しての空白部分が埋まったと思ったのに、相変わらず目の前にいる男についての記憶がない。
 起きるまで傍に居たことや自分に対する態度からして、近しい関係性を持つ人物だと思われるのに・・・・・・。
 そう思いながら達海を見上げると、こちらを凝視していた達海と目が合う。
 探るように見つめてきたが、こちらの視線の意味を悟ったのか
「オレの事は・・・まだわかんねーんだな」
 と淡々とした口調で言われた。
「あ、ああ・・・すまない」
「別にお前が謝る事じゃねーし」
 なんだか彼を思い出せない事に罪悪感を感じてつい謝ると、うつむいてぽつりと否定された。
 だが、すぐに思い直したように顔をあげ質問してくる。
「オレは兎も角、他の奴等は?有里とか思い出したか?」
「有里?」
「さっき来てたスーツの女だよ・・って、有里もダメか」
 ああ、永田さんと名乗った彼女かと理解したが、やはり自分の記憶の中に彼女も居ない。
 鸚鵡返したことで後藤の中に彼女の記憶もないことを悟った達海は、軽く溜息を吐くと
「まぁ、いきなり全部すぐに戻るなんて都合いいことあるわけねぇよな」
 と片眉を器用にひそめて苦笑した。
「でも、精密検査もしてない初日から結構自分のことは取り戻せたワケだし、いい方なんじゃね?」
 聞きようによっては、不謹慎にも適当にも取れるそっけない言葉だが、気を使ってわざと明るく振舞ってるというわけでもなく、本当にそう思っているから言っただけ、という態度で達海は話している。
 何故だかその達海の自然な態度が、今の後藤には安堵感をもたらしていた。
 ともすれば深刻で暗くなりがちなこの状況。
 無理矢理作ったぎこちない笑顔で「大丈夫」なんて励まされたとしたら却って居たたまれない気持ちになっていた気がする。
 
『なんだか不思議な男だな』

 後藤はこの目の前の達海という男に興味が引かれるのを感じた。
 その達海はというと、首筋をぼりぼりと掻きながら壁のカレンダーを見て「一週間か・・・」と呟いている。
「え?」
 後藤が問い質すと、にやりと少し人の悪そうな笑顔で言い放った。
「お前、いつも働きすぎだからなー。ちっとは休めってことかもな」
「そう・・なのか?」
 確かに、仕事をしてる記憶はある。他の記憶がない位に。
「そーゆーことにしとけ。んじゃ、オレそろそろ戻るわ」
 言いながら席を立って、扉の方に向かっている。
「ああ・・今日は居てくれてありがとう。色々と助かった」
 後藤がそう告げると、達海は一瞬立ち止まりこちらに背を向けたまま何事かを呟いた。

「そんなん・・こっちの台詞だっつの・・・」

「ん?」
「いや、また明日な。おやすみー」
そう言って達海はひらひらと手を振って病室を出て行った。


         ◆◆◆
         
「・・・ふぅ」
 一人になった途端、深い溜息を吐いた。
 ふと窓を見ると、昼間だったはずの外の景色はすっかり夕闇に染まり、時間の経過を実感させた。

『何というか・・・すごい一日だったな・・・』
 記憶喪失になるなど、朝には予想もつかなかった展開だ。
 結構深刻な事態なのに、どこか自分のことではないような感情と現実の乖離感がある。
 自分では普通にしてるつもりなのに、確かに頭の中にもやが掛かってる部分があると感じる。
 そして知らないはずの人間が自分を知っているという矛盾。
 そのことが後藤に記憶を喪失してるという現実を突きつけていた。

 そういえば・・・達海という男が自分とどんな関係性を持つ者なのか確かめていなかったと、今更ながらに気がついた。
 そもそも後藤がこうなったのは、達海を庇って階段から落ちたのが原因らしい。
 落ちる時にたまたま近くに居て、咄嗟に助けたのか?
 それとも、元々一緒に行動していて二人とも落ちたのか?

『・・・・・・ダメだ。全く思い出せない』

 やはりその前後の事が闇の中にあるようだ。
 目覚めた時、達海は心底安堵した様子で後藤に話しかけていたのに、自分に記憶がないと分かった瞬間。
 全ての感情が抜け落ちたような、時間がそこだけ止まったかのような表現しがたい表情になった。
『あれは・・結構な衝撃を与えちまったってことだよな・・?』
 それを思うと、自分と達海は近しい間柄じゃないかと思われた。

『また、明日な』

 脳裏にさっき別れた達海の声が蘇る。
 明日も来てくれるみたいだし・・その時に聞けば分かる事だよな。
 そんなことを考えていると、急激に睡魔が襲ってきた。
 色々ありすぎて流石に後藤の神経も疲弊してるのだろう。
 ベッドに潜りなおして、そのまま目を閉じる。
 廊下から時折聞こえてくる小さなざわめきを耳にしつつ、後藤は眠りに落ちていった。