第2章 『無意識の別離』

 その目が再び開かれたのは、それから2時間後の事だった。
「 !! 」
 眉根を苦しげに寄せたかと思うとゆっくりと瞼が開かれる。
 達海は思わず身を乗り出し顔を近づけて確認する。
「後藤!」
 強く呼びかけると反応したように、首ごとこちらを向いて達海を見た。
「あ・・・ここ・・は・・?」
 声は掠れ疑問と困惑の混じる後藤らしからぬ声だが、意識ははっきりあるらしい。
「良かった・・!呼んでもお前全然答えねーし、マジで・・・焦った」
 目覚めた事に安堵し、乗り出した身を元に戻しながらそう言うと、後藤は達海を凝視していた。

「後藤?」

 その瞬間、達海の中でとてつもなく嫌な予感が走った。
 昔から結構自分は勘が働く方だ。
 しかもこんな時外した事がない。
 心臓で大きく鼓動が跳ねた時。




「・・・・・・あの、貴方は・・・?」




 予感が的中した。
 その言葉はスローモーションのように達海に届いた。
 発した後藤はというと、「ここはどこだ?」といった時と全く同じく困惑と疑問を載せた瞳でこちらを静がに見返している。

「・・・・・・・・・・・・・・・・え?」

 コイツ・・・今。
 ・・・・・・・・・・・・・何て言った?
 “貴方” は?
 “あなた”ってなんだ? ・・・・・・・・・・・・オレ?
 聞き間違いかと思った。
 だが、自分の中で鳴り続ける警報にも似た嫌な鼓動と、目の前の男の表情が現実だと知らせる。

「いや・・・俺、なんで病院なんかに・・・確か仕事してたはず・・っつ!」
 後藤は身を起こしつつ疑問も顕わに周りを見回すと、記憶を辿ろうと考えた瞬間痛みを伴ったらしく頭を抱え込んだ。
 達海はこの時ようやく我に返り、ナースコールのボタンを押す。
「・・・・今、医者呼んだから。頭打ってるし、とりあえず寝て」
「え?あ、ああ・・」
 そう言うと、少々強引に後藤の肩を押して寝かせてしまう。
 無意識だったが、達海は後藤と目を合わせられなかった。
 心と身体が別々のものになったみたいに感じる。
 コールをしたり、寝かせたり、行動は酷く冷静に行われてるのに、それをしているのが自分じゃないみたいだ。
 目の前にいるのは確かに後藤だ。
 なのに・・・・・・・・
 
「頭、打ったのか・・・道理で・・・・」
 そういいながら後藤はこめかみの部分に手を当てて顔を顰めている。
「なんだ、これ・・・包帯・・・?」
「オレを庇って・・・・・階段から、落ちた」
「階段から・・・・・?」
 目を軽く見開いて驚く後藤に謝罪の言葉を投げかけるよりも早く、病室のドアが開いて医師と看護士が駆けつけた。


 医師はベッドの方に歩いてくるなり、達海に向けて声を掛ける。
「目を覚まされましたか」
「つい先程」
 一つ頷いて簡潔に答えると、医師も同様に頷き今度は後藤に向かって話しかけた。
「こんにちは。気分はどうですか?吐き気とかないですか?」
「ええ、吐き気はないですね。ただ・・・・若干頭痛があります」
 医者の質問に答える後藤は、意識もはっきりして言葉にも澱みがなく、いつもと変わらない様子に見える。
・・・・・・・達海の事を覚えてないという事を除けば。
「成る程。頭を打っていますからね、そのせいもあるでしょう。
ところで、どうしてこの状況になったか、覚えてらっしゃいますか?」
「それが・・・今日はクラブハウスで仕事をしていたはずなんですが・・・気がついたらここに・・・」
「ふむ」
 後藤はここでちらりと達海を見ると、話を繋げた。
「さっき、階段から落ちたって話を、この方から聞いたのですが」
 その言葉を聞いた時、医師は一瞬目を眇めて達海を見やった。
 どうやら症状に見当がついたのだろう。
 医師は平静な顔で後藤に質問を重ねる。
「そのようですね。頭に衝撃を受けたようで、軽い脳震盪を起こしていました。」
「脳震盪・・・・」
「ええ。救急車の中で一度意識を回復されていたようなのですが、覚えてらっしゃいませんか?」
「ええ・・・」
「そうですか。では確認なのですが、ご自分の名前、年齢、生年月日は覚えてらっしゃいますか?」
「・・・え?ええ、もちろん」
 何をそんな簡単なことを聞いているんだというような少々面食らった顔で後藤は口を開いた。
 だが・・・・その口から答えは発されない。
 
「・・・・・・・・・・あ・・?俺・・・・の名前・・・・?」

 信じられないという顔で医師を凝視している後藤を見て、達海は冷たい氷の塊を飲み込んだかのような気持ちになり顔を背ける。


『やっぱ・・・・・失われてんのか、記憶が』


 あの時、頭を強く打っている。
 こういう事態になりかねないことを予測できたはずなのに、達海は自分の存在が後藤から消えるなどと思いつきもしなかった。
「誰だ?」と正面きって問われた時に、その事実に目の前が真っ暗になり意識してなかったが、記憶喪失といえばアレだ。
『ここは何処?私は誰?』というやつだ。
 達海のことどころか真っ先に自分のことが欠落しているものだろう。

「無理に今すぐ思い出そうとしなくて大丈夫です。」
 思考の外から医師の明瞭な声が聞こえたかと思うと、症状の説明を始めた。
 それは達海の予想を違えぬ結果だった。