後藤が復帰してから7日目の朝。
それは、永田有里の怒号から始まった。
「後藤さんっ!達海さんこっち来てない??」
勢いよくスタッフルームの扉を開いたかと思うと、入るなり後藤に詰め寄った。
達海が約束の時間に広報ルームに顔を出さなかったという。
「え?ああ、さっきまで居たよ。でももう部屋に戻ってると思うけど・・・」
その勢いに気圧されながらも、正直に話す。
確かに「これから取材なんだよなー」と話していた。
今日もサッカー雑誌のインタビューの予定が入っている。
「ホント?入れ違いだったか・・・・ありがとう、部屋ね!」
そう云うや否や、来た時と同様勢いよくスタッフルームを出て行った。
こりゃ達海の奴、掴まったら説教だなとこっそり笑ったが、同時に思い出した。
『あれ?でもさっき着替えるって・・・・まずい!』
後藤は思いついた途端席を立ち、有里を追いかけ急いで達海の部屋に向かった。
そう、前にもあった。同じようなことが。
『達海さん、遅い!』
そう言って達海が着替えてる最中に、有里が部屋に突入してしまい、
全裸直前の達海を見て、悲鳴を上げたのだ。
悲鳴を聞き駆けつけてみれば、「鍵かけときなさいよ!」と真っ赤になって逆ギレを起こしている有里と、
「鍵なんかついてねーよ!お前こそノックくらいしろってんだ」と憮然とした顔で
そっぽ向いてる達海が部屋に居て、何とも云い難い険悪な雰囲気だったのだ。
後藤からしてみれば、ノックもせずに男の部屋に突入した有里も、約束の時間守らない達海も、
どっちもどっちだと苦笑してしまう。
有里の姿が見えたと思ったら案の定、正に達海の部屋に入ろうとしているところだった。
「ちょ、ちょっと待った、有里ちゃん!!」
「あれ?後藤さんまで?」
間に合った・・・。
有里は後藤が追いかけてきてると、気がつかなかったようだ。
「有里ちゃん、またいきなりそこ開けるトコだったろ?達海、たぶん今着替えてるはずだよ」
「え?・・・あっ!そうだった・・」
前回の失敗を思い出したのか、扉から一歩後ずさった。
あー今回は間に合ってよかったーと話していると、扉が開いて、当の達海が顔を出した。
「部屋の前が騒がしいと思ったら・・・何やってんの?」
やはり達海は着替えていたらしく、さっきのよれよれしたTシャツ姿ではなくなっていた。
「何やってんの?じゃないでしょ。時間になっても来ないから誰かさんがすっぽかすんじゃないかって迎えに来たの!」
気を取り直した有里は、達海に向かって早速説教を始めた。
達海の視線がこちらに向いたので、説明を補足してやる。
「ほら、前に着替え中に有里ちゃんが突入しちゃったことあっただろ?だからそれを止めにきたの」
「ふぅーん・・・それよりごとー」
「ん?」
達海は後藤が居る理由にはさして興味なさげな反応を示したが、
後藤を見てその目をすっと眇めた。
「お前、いつ有里のこと思い出した?」
「「え?」」
後藤と有里が同時に疑問の声を発した。
だが、有里が先にあーと声をあげて指摘する。
「た、確かに!今私のこと“永田さん”じゃなくて、いつもみたく下の名前で呼んでくれたよね??」
有里の顔を改めてみると、確かに彼女について失われていた記憶が蘇っているのが分かる。
永田有里。
会長の娘。
実家が“居酒屋東東京”。
ETU広報スタッフ。小さな時からETUのサポーター。
憧れの人は、達海猛。
・・・・・・・・・・・・・。
「お・・・思い、出した・・・!有里ちゃん、ゴメン!」
「ほ、ホントに?ホントに思い出してくれたの??」
「ああ、有里ちゃんが学生だった時に応援きてくれたことや、居酒屋に居たときのことも・・・
今に・・・・ちゃんと繋がってる」
「よかったぁーーー!」
有里はそう言って後藤の両手を掴みぶんぶんと左右に振って喜んでいる。
「だってさ、後藤さん私の事”永田さん”なんて呼ぶから後藤さんなのに後藤さんじゃないみたいで、
早く戻ってきてって思ってたんだよ」
やはり違和感を感じていたのか・・・・
記憶を失ってからずっと、有里は傷ついてる事など表に出さずにいつも通りに振舞ってくれていた。
敬語のない明るく親しげな口調もそのままに。
「うん。ホントに・・・・すまない」
有里の心情を察して忘れてた事を心から詫びると、気にしてないとばかりに首を振り笑ってくれた。
目の前に居た達海がドアに凭れ掛かりながら言葉を発する。
「それより、何がきっかけだった?」
「なんだろう・・・?でも“前にも同じ事があった”と有里ちゃんを追いかける時には、
その当時の記憶は頭にあったよ」
思えばそれがきっかけと言えばきっかけだろうか。
「そういえば、お医者さんが“過去にあったことと同様の体験をすると、想起によって記憶が蘇る”とか言ってたね」
有里の言葉を聞いて、確かに今まで記憶が戻った時も後藤が深く関わってる出来事や会話に遭遇したり、似たような事が起こった時だったと思い出す。
「同様の体験・・・ね」
達海はそう呟くと、足元に視線を移して何事かを考えてるようだった。
「私を思い出せたってことは、きっと近いうちに達海さんのことも思い出せるよ、きっと!」
そう言って、励ましてくれる有里にうんと頷いて返すと、有里は
「でも、やっぱ達海さんには負けたかー」と悔しそうだった。
「え、なにが?」
「達海さんの記憶が最後ってことは、それだけ後藤さんの中で達海さんの存在が大きいってことじゃない?」
「あ、ああ」
「私の記憶も戻らないから、結構わたし後藤さんに好かれてんじゃん!って喜んでたんだよ」
「有里ちゃん・・・」
そんなことを思っていたのか、と後藤は少なからず感動した。
「でも、やっぱ十年越しの愛には負けたか〜」
「ちょっと・・・やめてよ、有里ちゃん・・・」
せっかく感動したのに、台無しだ。
有里の言葉に「この子はどこまで気付いてるのか」と恐れおののくと共に、
脱力感を感じて肩を落とす。
すると、達海が有里に向かって挑戦的に言ってのけた。
「有里、お前オレに勝つ気でいたの?」
「別にそういうわけじゃないけどさ」
「残念だったな」
有里相手に何でか達海は勝ち誇ったような顔をしている。
大人気ない・・・。
「あー、そんなことより、早く!仕度して!」
そんな達海の態度にむっときたのか、本来の仕事を思い出したのか、途端に急かして広報の顔になる。
「じゃ、後はがんばれよ」
後藤もそう言って、達海を有里に任せてスタッフルームへと戻った。
◆◆◆
有里の記憶が戻った翌日の昼下がり。
後藤は来客を外まで見送りに行き、その足でグラウンドの周りを見て回ることにした。
5月以降になると、暖かく天気も良い日にはサポーターが見学に来たりする事がある。
ただ、人が多く来るとごみが落ちていたり、柵や網が壊れてしまってることがあるので、
たまに見回ったりしてるのだ。
GMの仕事かと言われると、大抵のチームでは違うだろうが、ETUは親会社を持たない市民クラブなので、あまり拘らずやっている。
そうしてチェックをしながら歩いていると、後ろから呼ばれた。
「あれ・・・・?達海?」
この時間は練習でグラウンドに居たと思っていたのだが、こちらに歩いてくるのは監督だった。
「お前が歩いてるのが見えたから。・・・・見回り?」
「ああ、一箇所柵が外れてた。やはり、頻繁に見る必要があるな」
「お前忙しいんだし、他のスタッフにやらせたら?」
「いいんだ、忙しいのは皆同じだろ?それにこうして外に出てると、近くで選手達やお前の様子も見られるし」
「そっか・・・・」
達海は簡潔に頷いたが、その瞳が「お前らしい」と告げていた。
「それより、お前こんなとこに居て大丈夫なのか?」
「あー、へーきへーき。今イメージトレーニング中。ポジションごとにコーチにやることやってもらってる最中」
成る程。道理でグラウンドが静かになったわけだ。
そうして二人で歩いてると、前方に六十過ぎの男性がグラウンドをじっと見詰めているのが目に入った。
後藤は、「誰だ?」と目を眇めて見ると、たまにふらりとやってきて見学している
近所の方だと分かって安堵する。
負け試合の後なんかだと、選手を罵倒したり怒鳴りに来る悪質なサポーターもいるので、つい警戒してしまうのだ。
「・・・・あれ、だれ?」
「近所にお住まいの春日さんって人だよ。俺たちが現役の時から知ってるような長いETUのサポーターだ」
「ふーん・・・やな予感」
達海の「やな予感」は当たっており、春日さんの用件は苦情だった。
「こんにちは、春日さん」
「・・・GM。今日の用件は貴様じゃない。おい、そこの小僧」
敗戦後だったので何となく後藤も予想してたが、達海が一緒の時に鉢合わせるとは、間の悪い・・・。
春日は達海や後藤程度の年齢だと、全員“小僧”呼ばわりだった。
後藤も最初そうだったが、二年かけてようやく“GM”と呼んでもらえるようになったくらいだ。
「オレ?」
「他に誰がいる?貴様、先日の試合・・・・わしらをなめてんのか?」
「・・・・・・・」
「貴様がここに帰ってきて監督になったと聞いた時、最初の連敗は想像がついたでな、気にしちょらんかったし、最近は負けてもいい流れが出来ちょうから少しはやる奴かと安心しとったら、なんね?」
「・・・・・確かにアンタのような長くオレらを応援してくれてる人間には不甲斐無い試合だったと、自覚してる」
達海は春日の言い分を聞いて、きちんと話すべき相手だと認識したのだろう。
表情を改めて言葉を選んでいるのが分かる。
先日の内容が、自分の不調のせいだと自覚してるせいか、この糾弾を受ける達海は少し苦しそうに見えた。
「結果だけのことじゃない。原因、分かってんじゃろな?」
「・・・・・・ああ」
春日の言い分も正しい。
長年見てくれてるだけあって、文句は言うけどずっと応援してくれている、良質のサポーターだ。
だが、それでも今達海の心を傷つけている春日に苛立ちに似た感情が沸き、
後藤はつい二人の間に割って入ってしまった。
「春日さん。いつも応援下さってるのに、先日はご期待に背くような結果になってしまって、大変申し訳なく思っております」
そういって、深く頭を下げる。
「む・・・」
「監督も選手達も先日の反省点を洗い出し、汚名挽回を目指しております。
勿論、フロントとしても全力を尽くして選手の補強等尽力致しておりますので、何卒ご理解の程お願い致します」
再び頭を下げると、頭上から溜息が聞こえた。
「全く・・・ちょお渇入れてやろうかと思うとったが、アンタにそこまでされたら、もう言えんじゃろが」
「春日さん・・・ありがとうございます」
「ふん。・・・・せいぜいジジイが見てると思って精進せい」
「・・・肝に命じておくよ」
最後の台詞を達海に向かって言い捨てると、春日は踵を返して帰っていった。
その姿を見送っていると、横から視線を感じたので振り向いて達海を見やると、やや憮然とした顔があった。
「今のは・・・・オレの仕事だろ?」
「いや・・あれはETUを愛してくれてるからこその感情的な怒りだ。春日さんの言い分も正当だけど、今言った事に嘘はないし、お前の仕事は選手とチームを勝たせること・・だろ?」
「まあ、そうだけど・・」
「しかし・・最大の味方は、時に最大の敵になるってことだな・・」
溜息を吐きながら春日の去っていった方角を見やる。
先日の試合のことは達海自身が一番堪えてる様子だったから、あまり触れて欲しくなかったが、そういうわけにもいかないのがサポーターってものだろう。
ただ、達海の傷ついた表情を見た時、後藤にとって春日は完全に“敵”だった。
「ま、俺は結構、いつでも周りは敵だらけだったけど」
そんなの今更だし、気にしないという風に達海は呟く。
「・・・・・・」
確かに達海はこの性格と素質で現役時代にも注目を浴びる分、敵も多かったように思える。
でも、そんなお前だから。
「でも達海。俺は・・・・俺だけはお前の味方だか・・ら・・?」
言ってる途中で物凄い既視感に囚われて驚いた。
「後藤・・・・?」
そうだ、俺は以前にも全く同じように思ったことがある。
「サポーター・・・味方・・・?」
そういえば、達海が現役時代にも敵が多かったと「覚えている」!
後藤の様子がおかしいことに気付いた達海が身体ごとこちらに向き直る。
「後藤・・・・ひょっとして何か思い出したのか?」
「・・・ああ・・前にサポーターにバスを囲まれたことがあった・・よな?」
それを聞くと目を見開いて両腕を掴んできた。
「あった!思い出したのか!?」
次から次へと波のようにその場面が蘇る。
『あいつらオレと話したいみたいだからさ』
『お前を出すわけにはいかない』
『一晩付き合ってでも、説得する』
『しょーがねーなー じゃ、譲るよ』
そうだった。
あれはチームが5連敗したことで、スカルズのメンバーがバスを取り囲んで達海を糾弾しようとしていた・・・。
「その時にも、今と同じ事を思った」
その時のことは、今 気持ちごと蘇った。
掴んできてる腕を外すようにその両腕を掴み、正面から真っ直ぐ目を見て告げる。
「俺は・・・・俺だけは、お前の味方だ。って」
「!!!」
先程よりも大きく見開かれた瞳を見ると、頭に激痛が走った。
「 っつ?! 」
打撲は治ったはずなのに、そこが痛む。
「ご・・後藤?」
急に痛みで顔を顰めた後藤に、驚いた達海が珍しく動揺したような声をあげているのが聞こえる。
痛みが激しくなって、心臓の音とリンクしてきた。
立っていられなくなり、達海の腕を掴んだまま、膝を折る。
「お・・おい!後藤! 後藤!!」
達海が必死に後藤を呼んでいるのが分かる。
どうにかして顔を上げると、見たことない位に動揺し叫んでいる顔が見えた。
いや、つい最近同じ表情を間近で見ている・・・・。
「後藤!!」 『後藤!!』
その瞬間、光が流れ込んだ。
『ああ・・・そうかこの顔、あの時階段で落ちそうになった時の・・・』
『スケージュールの詳細、見して』
『お前、あそこで何してたの?』
『ちゃんと、いっぱい寝たよ』
『・・・・たまごサンドがいい』
あの日の会話が蘇り、そして後藤は全ての記憶を取り戻した。
その、強すぎる想いごと。
『達海・・・俺は・・大丈夫だから、そんな顔、するな・・・』
そう云いたいのに、声が出ない。
伝えたい。この想いを全て、伝えたい。
そう思うのに、出ない声の代わりに出てきたのは、涙だった。
突然苦しそうにしたかと思ったら、泣いている。
達海が驚くのも無理はない。
せめて、笑わなくては・・・
そう思い、後藤は達海に微笑んだ後、掴んでいた手を離し頭を抱えるようにして、達海を抱き締めた。
「たつみ・・・、『 ただいま 』
辛うじて、名前を呼ぶことが出来たが、最後までは声にならなかった。
達海の問いかける声を聞きながら、再び後藤の意識は遠のいた。